みかづきときどき日記

本や日常のことなどゆるゆる

【読み返す一冊】岡真史『ぼくは12歳』(筑摩書房、1976年)

1970年代の半ばに筑摩書房が倒産したとき、「筑摩書房を応援するために筑摩の本を買おう」と、母が筑摩書房の本を何冊かまとめて買ってきたことがあった。そのうちの一冊が、この『ぼくは12歳』だった。

わたしはそのとき小学校3年生くらいだったか…。

この本の最初に作者である岡真史氏の略歴が付されており、そこに以下のような記述がある。

同【一九七五年】 七月一七日 夕刻、近所の団地にて大空に投身、自死。享年十二歳九か月

この「大空に投身」という言葉がずっと心に残っていた。大空に投身。空に向かって飛ぼうとしたかのような言葉には、いわゆる「自殺」とは異なるなにかがあるような気がしていた。わたしはいつも岡真史君(くん、と言いたくなる)が団地の上階からひらりと飛び降りているところを、自分が下からみているような光景を心にうかべていた。だからなんとなく、「投身」という言葉と、そのあとの「自死」という言葉が結びついていないような気持ちをずっと持っていた。彼はジャンプしたのであって、死んだのではないのではないかと、小学生のわたしは思っていた。

 

表紙にある言葉「ひとり ただ くずれさるのを まつだけ」と、海の中にはなたれた紙飛行機の絵を見ると、さびしさに引き込まれるようで怖いと思うのだけれども、なんとなく気になって折にふれて読み返していた。愛読書、というのとも違って、なんとなく手放したくない本。実家を出るときにも持ってきて、いまも手元にある。

いま読み返してみると、作者の岡真史君はわたしとはほんの9歳しか違わない。なんとなくもっとずっとずっと年上のような気がしていた。それは彼が書く詩がひどく大人びていたからかもしれない。実際に19歳や大学生という設定の語り手の詩もあるからかもしれない。彼は自分をどう思っていたんだろう。19歳や大学生になったときの自分を想像して書いたんだろうか。それとも、もう彼はそれくらいの精神年齢になっていたんだろうか。

お行儀のよい感じの詩もあれば、言葉を荒くしたような詩もあり、考えるより先に言葉が出てしまったかのような詩もある。一方で、抑制された表現の中に、どうしようもない感情がすけてみえるような詩もある。

 

ぼくはしなない

ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから

 

原文ではさいごの「じぶんじしんだから」には傍点がついている。わたしはなんとなくこの詩が忘れられなかった。いま思えば、この詩集を読んだ頃から、自分ってなんだろう、他人と自分はなにが違うんだろう、自分はなんで自分なんだろう、ということを考え出したのかもしれない。小学校3年生とか4年生頃からみれば中一なんていうのはすごく大人に見えていたから、12歳になったら人はこういうことを考えるものなんだ、と思っていたし、そういうことを考える人になりたいと、どこかで憧れていたかもしれない。あるいはーーすごくおこがましいけれどもーー岡真史くんに、なにか自分の近いものを感じていた、ようなところがある。

でも、とっくに12歳を通り過ぎて数十年経ったいま、この詩集を読み返すと、ただただ岡真史君の感性の鋭さに感服するしかない。とても到達できないところに、すでに彼はいたのだな、と。

そして大人になってから、岡百合子さんのあとがき「同行三人」がつらくて読めなくなってしまった。

 

生きていたら彼はもう還暦を迎えたはず。もし生きていたら、なんとなくどこかで会ったりすることもあったかもしれない、などと考えてみる。

ぼくは12歳