みかづきときどき日記

大学でアメリカ文学を教えています。本や日常のことなどゆるゆる

『ほりしぇん副校長の教育談義−−悩み多き中学生のキミへ、そして若き教師に向けて』(みくに出版、2024年)

 

振り返ってみるに、わたしの中学生時代というのは暗黒の日々だったと思う。地方都市の公立中学に通っていたけれども、教師が絶対的な力を持っていて、体罰は当たり前。忘れ物をしたらビンタ、すこし騒いだら廊下で正座、怒ると黒板消しで生徒を叩いてチョークの粉だらけにしてしまう、という先生さえいた。

 

どこからか「管理教育」という言葉が聞こえてきて、ああ、自分が通っている学校はそういうところなんだ、と思って、早くここから抜け出したい、と思っていた。

 

大人はわかってくれない、親も先生も大嫌い、だけど親元から離れる勇気も経済力もない自分も嫌いという、尖ったナイフみたいな中学生でした(まあ、見かけはアラレちゃんみたいでしたけど…)。気持ちを持て余していたわたしのガス抜きは毎週の図書館通いで、書物の中に「別の世界」を見出して自分を慰めていた。

 

ケストナーの次の言葉をずっと今も覚えているのは、そういう中学生時代を過ごしたせいでもある。

 

どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう? そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?(『飛ぶ教室』)

 

 

でも、そのとき、たとえば自分を理解してくれる先生がいたらどうだったんだろう? 自分は心を開いただろうか? そんなことを思ったのは、堀内雅人氏の『ほりしぇん副校長の教育談義――悩み多き中学生のキミへ、そして若き教師にむけて』を読んだからだ。大正デモクラシーの中で生まれた自由教育の流れを汲む学校、私立明星学園中学校の副校長を長く務めた先生だ。

 

堀内氏ーー学校では親しみをこめて「ほりしぇん」と呼ばれている(堀内先生→堀内しぇんしぇい→ほりしぇん)――は、井の頭にある明星学園中学校で30年以上もの間、国語の先生として、そしてその後の10年は副校長として、過ごされてきた。生徒たちと接してきた経験から生まれたこの本には、中学生を教えるということか(第I部 中学生の風景)、実際の授業について(第II部 授業の中の中学生)、教科以外の学びの場としてのてつがく対話について(第III部 教科教育を超えて)、堀内氏たちが始めた中学校の卒業研究プログラムについて(第IV部 中三『卒業研究』の実践)、そして中学生と若き教師に向けた言葉(第V部 悩み多き中学生のキミへ、そして若き教師に向けて)が、収められている。

 

とはいえ、発達教育学的な話題や、授業のストラテジーや、中学生にはこう接しましょう的なマニュアルがまとまっているだけの本ではない。わたしが本書を一読していちばん心に残ったのは、こと「中学生」を教えるということに対する堀内氏の教育姿勢と、文学への確かな信頼だった(とわたしには思われた)。

 

それが強くうかがわれたのは、文学と自分との対話を通して、他者、そして世界があることを中学生の生徒たちに教えようとする堀内氏の授業の風景からである。

 

「第II部 授業の中の中学生」において、太宰治の『走れメロス』を中学生の教材として取り上げたことが記されている。当初、堀内氏はこの作品を授業で扱うことに逡巡していたという。中学生なら「こんな話あるわけない」という感想を持つ可能性もある。かといって、「友情っていいね」という話だけでもない。そうはいっても、どこかで人を信じることの大切さも感じてほしい。「教材」としての『メロス』をどう扱うべきか。この物語と中学生をどう対峙させればよいのか。そこで堀内氏は、生徒たちに、王であるディオニスの視点から物語を語らせることにしたという。視点を変えてみること、固定した視点から一歩引いてみてみること、それによってこの作品がどう変わるのか。

 

本書では、生徒たち自身が、『メロス』とどう向き合ったのかが、段階をおって紹介されている。初読の感想や、メロスやディオニスの人物考察ののち、生徒たちは王様視点の一人称による作品の語り直しに取り組んだという。これについて堀内氏はこう語っている。

 

教材の価値は、学習する内容と同時に、作品と学習者の間でどんな火花が散るかできまるのでしょう。(115)

 

その「火花」は、生徒たち(学習者)にさまざまな視点をもたらす。その視点とは「他者」の存在を知るだけではなく、それは自分をも「他者」として見つめる視点でもあるのではないだろうか。堀内氏はこう続けている。

 

ともあれ、授業は生徒の読みの交流で基本的に進めることができました。授業の後の休み時間に、小声で、「僕、ディオニスに似ているかもしれない」と言ってきた生徒がいました。授業の中でも、そんなつぶやきをしている生徒が何人もいました。メロスや王様について語りながら、自分を重ね合わせ、友情の難しさについて思いをはせている生徒が少なからずいたとするなら、大変嬉しいことです。(115)

 

いろんな視点を持つこと。自分の視点を持ちながらも、それは複数の視点のひとつであることを理解すること。

 

わたし自身は、文学研究の大切な要素に「他者」を知ること(そしてもちろん自分も「他者」になる)と考えている。そして近年ますますこの他者理解の重要性を意識するようになってきたこともあり、堀内氏が文学教育を通じて生徒に見せた「世界」にとても共感するものがあった。

 

本書の冒頭にも書かれていることだが、この堀内氏の教育姿勢は、氏が大学時代、夏目漱石を研究していたこととも繋がっているのだろう。漱石には、「同時代の『自然主義』作家たちとは違う世界的視野」があったが、かといって耽美派のように「美の追求に走ることもしない」と堀内氏は語る(22)。わかりやすく世界を切り取ることのない漱石の苦しさを、堀内氏は教育実践の中に取り入れていったのだと感じられた。

 

ひとつではない立場、「視野」や「視点」がたくさんあることはまた、希望でもある。いま目の前にあることだけがたった一つの世界じゃない、ということこそが、中学生の「キミ」にわかってもらいたいということなのだろう。だからこそ「てつがく対話」や「卒業研究」を通じた学びが重要なのだ。もちろん、中学生の生徒がすぐに「はいわかりました!」などと理解してくれることを堀内氏は期待してはいないだろう。「うるせーよ!」と言われたり「そんなこと関係ねーよ!」などと言われながらも、「でも世界はあるんだよ、視点はこれだけじゃないんだよ」と語り続けることこそが、教師に求められるものなのだろう。

 

「第I部 中学生の風景」では、さまざまな生徒との出会いや交流の様子が語られるが、その中で、詩人アーサー・ビナード氏を講演者として学園に招いたときのことを語った「二つのメガネを持つことの大切さ」という章がある。原子爆弾を落としたことが正義だと思われていたアメリカで教育をうけたビナード氏が、日本語を学んだのちに戦争について考えた時、つまり「日本語のレンズでそれをながめ」たとき、いろいろな疑問が出てきたとことが紹介されている。違うレンズがあることに気づくこと、そのレンズからものごとを見てみることの大切さとともに、堀内氏は批判的な視座を持つことの重要さも指摘する。

 

大切なのは、視点を変えた時、一つの現実が全く異なる様相として現れるという驚きです。文学教育の最も大切なことは、この「視点」「語り」の問題にあると私は考えています。思想を教えることではありません。感動を経験させることが第一でもありません。文学は人の心を揺さぶります。感情移入を経験させることができます。だからこそ、文学教育では、一方で批判する力を身につけさせることが求められます。まさに「考える自由」を授業場で教師も生徒も持っていなければなりません。(78)

 

 本書を読みながら、ふとわたしは、自分が中学生だったときに授業で読まされた(あえて「読まされた」というが)芥川龍之介の「蜜柑」を思い出していた。何を聞かれたか、何を答えたか忘れてしまったが、わたしはそのときの先生が期待するような答えとは違う、自分の解釈を述べたところ「本当にそうだと思うの?」と何度か聞かれ、暗にその答えを撤回しろと言われているように感じたわたしは「はいそう思います」と答え続けたことがあった。あの時もし先生に「なるほどそういう考えもあるね、じゃあこういう場合はどうかな」などと聞かれていたらどういう視点を得ていただろうか。

 

いずれにしても反抗的な生徒だったわたしは、「違うレンズ」の存在に気が付かなかったかもしれない。本書を読んでいる間、自分の中学時代を思い出してちょっとつらいな、という気持ちになりながらも、やっぱり文学があってよかったとも感じたのだった。そして堀内雅人氏が実践してこられた「文学教育」の大切さと楽しさも感じていた。そして、自分があれほど嫌っていた教師という立場になっているいま、決してもう若いとは言えないけれども「若き教師にむけて」という副題にある通り、「わたし」に向けての言葉でもあると思い、折にふれて本書を読み返していきたいと思う。