みかづきときどき日記

本や日常のことなどゆるゆる

逢坂冬馬『歌われなかった海賊へ』(早川書房、2023年)

 

 物語は現代のドイツから始まる。

 歴史教師のクリスティアン・ホルンガッハーは、30年間「この市と戦争」という課題を生徒に出し続けていた。次第に戦争の記憶が薄れていく時代にあって、この課題の意味はあるのかと思うホルンガッハーは、生徒たちのレポートを読んでいく。この市の近くには強制収容所の跡地があることや、その土地ゆかりの軍人のことなどが語られる。

 一方で、課題の提出ができていないトルコ系移民の生徒デミレルのことを、ホルンガッハーは気にしていた。彼は最近、町の変わり者の老人フランツ・アランベルガーをかばって暴力沙汰を起こしていたのだ。そのとき老アランベルガーは、デミレルに「殴り方」を教えてやると言ったという。ホルンガッハーは、この老人を訪ね、ことの経緯をきこうとした。だが老人は、これがその「殴り方」だと告げ、一冊の本をホルンガッハーに手渡した。

 

 『歌われなかった海賊に』は、アランベルガーからホルンガッハーに渡された本に書かれている物語が読者に開示されるという、枠物語になっている。その物語とは、1944年ナチスが支配するドイツで、ナチスのやり方に反抗した若者たち、すなわちエーデルヴァイス海賊団を名乗る少年少女の物語である。そこでかたられる「戦争」は、ホルンガッハーが課題を出した生徒たちが調べて書いた「戦争」とは異なる顔をみせる。

 

 本書は、独ソ先生を戦い抜いた狙撃兵を描いた『同士少女よ、敵を撃て』(早川書房、2021年)で鮮烈なデビューを飾った逢坂冬馬の最新作。前作同様、戦争下という状況が描かれているが、前作が戦闘訓練を経ての実戦における極限状態に重点が置かれているとするなら(と曖昧な記憶…)、本作はより登場人物ひとりひとりの個別の事情に焦点が当てられていると言えるかも知れない。

 

 本書ではナチスが生み出す制度や教育にはまることができなかったり、自分の心の声を無視することができなかったりする若者たちが、「エーデルヴァイス海賊団」として抵抗運動をする様子が描かれる。しかし、ここで興味深いのは彼らが反抗する理由を統一することなく、高邁な理念を持つわけでもなく、ただこのまま従うことができないというその姿勢によって「エーデルヴァイス海賊団」としてゆるく、だが確実に結びついている、という点だ。労働者の息子ヴェルナー、町の新興企業の息子レオンハルト武装親衛隊将校の娘フリーデ、ただ爆弾が好きだという少年ドクトルらは、お互いをよく知っていたわけではない。ただ、「命を賭けて遊ぶ」ことを通じて、相手を知っていく。

 海賊団がどのような抵抗運動をするのか、ということがもちろん本書のキモなのだが、同時に本書で見逃すことができないのは、幾重にも重なる語りである。本書は基本的に三人称で語られているが、アランベルガーがホルンガッハーに渡した本は、アランベルガーがヴェルナーから聞いた話を、アランベルガーが三人称にして書きとめ、さらにそれを我々が読むという構図になっている。ヴェルナーやレオンハルト、フリーデと読者との距離、誰が語るかという問題、それが人の理解とどう関わっているのか––––ということを本書は問いかける。生徒たちのレポートから浮かび上がる「戦争」と、アランベルガーが描くヴェルナーにとっての「戦争」が違うように、また生徒達が英雄と考える人が、アランベルガーが描くヴェルナーにとっては裏切り者になる。「粗雑な『理解』」をするわれわれの姿を本書は浮かび上がらせる。それは、この語りと対象との遠さ­­からもうかがわれる­­­––––かもしれない。

 

完全に他人を理解する人間はいない。自分を完璧に理解する他人が一人でもいるか、と置き換えていれば容易に理解できるこの事実を、人はなえかしばしば忘れてしまう。

 

 ホルンガッハーが出した課題「この市と戦争」に、どこの市か明示されていないことからもわかるように、「この市」とは「どこの市」にもなり得る。この物語は、1944年の特定の国の特定の町の話ではなく、どこにでも起こりうる物語ともいえるかもしれない。もちろん「戦争」という状況が、それをより顕在化させる要素であることは疑いえない。『歌われなかった海賊へ』は、これまでも歌われることのないままの人々がいること、いまもこれからも歌われることのない人々がいるだろうことを(それは往々にしていわゆるマイノリティと言われる人々であることが多い)静かに指し示しているように思われる。

 

 歌われなかった人々を歌うこと。それが自分に出来るのか。読み終わったあとにそう問いかける自分がいた。