みかづきときどき日記

本や日常のことなどゆるゆる

【読み返す一冊】エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』(高橋健二訳、岩波書店、1962年)

 

わたしの母親は大学で児童学を専攻しており(児童文学者の中川正文氏の授業など受けてたらしい)、結婚前は幼稚園の先生をしていたんですね。だから家には児童文学の本とか絵本がわりとあったんです。その中に、岩波書店ケストナー少年文学全集があり、『エーミールと探偵たち』や『点子ちゃんとアントン』、『ふたりのロッテ』などを繰り返し読んでいました。

 

中でもいちばん読み返していたのが『飛ぶ教室』でした。

 

これは、ドイツ・キルヒベルクのヨハン・ジギスムント高等中学という寄宿学校を舞台にした、少年たちの物語。

 

物語の中心は、5人の少年。

ボクサーになることを目標としており、いつもお腹をすかせているマチアス・ゼルプマン、貴族出身の小柄で気弱な少年ウリー・フォン・ジンメルン、頭の回転が早く皮肉屋のゼバスチアン・フランク、そして幼い頃両親に捨てられた過去を持つ文才のあるヨーニー・トロッツと、家が貧しいため奨学生として在籍しており、成績優秀、絵の才能にも恵まれているマルチン・ターラーの5人。

 

中でも、正義感がつよく、リーダーシップもあるマルチンは、生徒たちからのみならず、舎監であるヨハン・ベク先生からの信頼もあつい。子どもたちもベク先生を敬愛している。

 

けれども、たとえばライバル校の生徒たちと決闘をするようなとき(ベク先生に迷惑がかかるかもしれないとき)は、学校の裏手に住む世捨て人のような男性(みんなは「禁煙先生」と呼んでいる)に相談したりする。彼は廃車になった客車を住まいに改造している変わった人物だ。

 

この5人はそれぞれお互いを思いやりながら、学校生活を送っている。その5人がクリスマスの出し物として、ヨーニーが物語を作り、舞台芸術をマルチンが担当した劇「飛ぶ教室」の練習に励んでいる。その劇が終わったら、みんなはクリスマスの休暇のために家に帰るはずだった(ヨーニーはクリスマス休暇はもともと学校に残ることになっていた)。

 

しかし、休暇直前になってマルチンの手紙が届く。それは、どうしてもお金を工面できなかったから、今回のクリスマス休暇にマルチンに家に帰ってきてもらう旅費を送ることができない、休暇は学校に留まっていてほしい、本当にごめんなさい、身体に気をつけて・・・という母親からの手紙だった。両親もつらい。でもそれを読んだマルチンの心は悲しみで引き裂かれるようだった。

 

ふだんどおり振る舞おうとするマルチンの様子がおかしいことに気づいたベク先生は、「もしかして・・・家にかえる旅費がないのかい」とたずねると、マルチンはそれまでずっと我慢していた涙を抑えることができず、号泣してしまう。ベク先生はだまってお金をマルチンにわたし、これで帰省するように言う。

 

というのが、大筋のあらすじです。でもこの他にもさまざまなエピソードが織り込まれていて、ひとつひとつが印象深い作品です。舞台になっている高等中学の寄宿学校っていわゆるギムナジウムのことかと思うんですが、なのでわたしにとってギムナジウムというのは萩尾望都さんの前にケストナーがあったんです。

 

それはさておき。

 

まえがきでケストナーは、子ども向けの話はハッピーな話が多いけれども、子どもだって悲しい思いをしたり、つらい思いをしたりすることを、なぜ大人はわすれてしまうのか? ということを問いかけています。

 

どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう? そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?(この機会に私はみなさんに心の底からお願いします。みなさんの子どものころをけっして忘れないように! と。それを約束してくれますか、ちかって?)

 

子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだってめずらしくありません。誤解しないでください、みなさん! 私たちは何も不必要に涙もろくなろうとは思いません。私はただ、つらい時でも、正直でなければならないというのです。骨のずいまで正直で。

 

ケストナーは、おとなは子ども時代を忘れてしまう、子どもの哀しさというものを大人は真剣に取り合わない、といったことを他の本でも繰り返していますが、それだからか、子どもには子どものつらさがある(大人はそれをわかろうとしない)、ということは、なんとなくわたしの中に残っているようなところがあります。まあいま自分は大人になってしまったのですけれどもね。

 

もうひとつ、わたしがずっと覚えているのは、次の部分です。

 

かしこさのともなわない勇気は、不法です。勇気のともなわないかしこさはくだらんものです! 世界史には、ばかな人々が勇ましかったり、かしこい人々が臆病だったりした時が、いくらもあります。それは正しいことではありませんでした。

 

かしこさと勇気、どちらが欠けてもだめだ。かしこさと勇気の両方を持つことを、この物語に出てくる男の子たちは学んでいく・・・というようなところがあるかもしれません。わたしは折に触れてこの言葉を思い出しています。

 

そして、この物語に対して、もうひとつ、わたしはずっと気になっていたことがあるのです。いまもずっと気になっています。それは、上記の5人の少年たちの関係性です。それは、ひとりあまる、ということなんです。孤独な少年が出てくるんです。

 

上記の5人の少年のうち、ボクサー志望でコミカルでアホなマチアスと、気弱で小柄なウリーは仲良しでお互い欠点を補い合っている。でこぼこコンビみたいで心あたたまる。

 

この物語のメインの登場人物であるヨーニーとマチアスもお互い理解し合っている。バディですね、バディ。マチアスはヨーニーの(親のいない)悲しみを理解しているし、ヨーニーもマチアスが優等生ながらいろいろ心に抱えていることをわかっている。

 

ヨハン・ベク先生も、実は禁煙先生と少年時代に同じ寄宿舎で友情をはぐくんでいたのですよ。大人になって行方がわからなくなっていた禁煙先生と、ベク先生は少年たちによって再会し、ふたたび友情を確かめあうのでした。

 

でも・・・

 

ゼバスチャンはひとりなんです。

皮肉屋で、いつもちょっと斜に構えているゼバスチャン。みんな彼が一人でいるのが好きなんだろう、そういう人なんだろうと思っていた。

 

けれども、実は彼にも心にいろいろな葛藤があることを、ケストナーは記しているのです。

 

臆病だと言われ続けていたウリーが、自分だって勇気があるところを見せようとして、あるとき運動場のはしごの上から、傘を手に飛び降りる、ということをして大けがを負います。

 

そのあと、ゼバスチャンがクラスメートと次のような会話を交わします。

 

「ちがいは、ウリーがほかの臆病ものより以上に恥を知るという点だ。ウリーは、つまり一本気で単純な少年なんだ。勇気の欠けている点が彼自身を何よりもなやましたんだ!」ゼバスチャンはちょっと考えてからいいつづけました。「ぼくがいまいおうとすることは、じっさいはきみたちにはまったく関係がない。だが、きみたちは、ぼくに勇気があるかどうか、いつか考えてみたことがあるかい? ぼくが小心だということに気づいたことがあるかい? きみたちは全然きづいたことがない! だからないしょでうちあけるが、ぼくはなみはずれて小心なんだ。だが、ぼくはりこう者だから、それをきづかせないのだ。勇気の欠けていることはとくにぼくをなやましはしない。ぼくはそれを恥じない。それがまたぼくのりこうなところからきているのだ。だれにでも欠点と弱点があることは、ぼくだって知っている。その欠点をおもてにださないということだけが問題なんだ。」

 むろん彼のいうことが、みんなに理解されたわけではありません。とりわけ、年したの少年たちはのみこめませんでした。

「ぼくは、恥を知るほうがいいと思うな。」とれいの高等科二年生がいいました。

「ぼくも同様だ。」とゼバスチアンが小声で答えました。彼はきょうは妙におしゃべりでした。それはおそらくウリーの事故のせいでした。ふだんは彼はいつも人をあざけるような奇妙なことばかりいうのでした。彼には友だちがありませんでした。彼は友だちがいらないんだ、とみんないつも思っていました。ところが、彼らは今、彼もやはり孤独になやんでいたのだということに気づきました。彼はたしかに、ひじょうに幸福な人間ではありませんでした。

「それはそうと、」彼はだしぬけにひややかにいいました。「それはそうと、ぼくに勇気の欠けていることをばかにすることは許さないぞ。そんなことをするものがあったら、ぼくはただじぶんの面目をたもつために、はりたおさずにはおかない。それくらいの勇気は、ぼくも持ちあわしている。」

 

 

 たぶんわたしがこの本を繰り返し読むのは、この場面があるからかもしれない。この孤独。自分が孤独であることを理解しているけれども、それを表に出そうとしないこのゼバスチアンの孤独。ケストナーは最終的に、ゼバスチアンの孤独に容易な解決を与えていない。ゼバスチアンは大人になって(この本にはその後5人がどうなったかの説明がある)化学者になったことが記されているけれども、彼の孤独感がどうなったかは記されていない。彼はいまもひとりなんだろうか?

 

なんでケストナーはこういう少年を描いたのだろう? とわたしはいつも思うのです。かしこさだけがあって勇気がないのは「ひじょうに幸福な人間ではありません」ということを示すため? 「おそろしくむずかしい本を読」みながら、彼はいまも孤独の中にいるんだろうか? 

 

ひさしぶりに読み直してみましたが、こうだ、という解釈はいまだに自分の中に見つかっていません。でもわたしは、ゼバスチアンの幸せを祈るのです。