みかづきときどき日記

本や日常のことなどゆるゆる

Elaine Hsieh Chou, Disorientation (Picador, 2022)

大学院の修士課程の学生だったとき、授業のテキストに使用していたケンブリッジアメリカ文学史のハードカバーを抱えて(重くて厚くてカバンに入らない)古本屋の店先の本を見ていたとき、わたしが英語の本を持っていたのを見た男性から「日本の本を読め、日本文学を読めよ!」と言われたことがあったんです。わたしは「は? 日本の小説も読んでますけど」と言い返してその場を去りましたが、ちょっと今でも腹立たしい思い出です(わたしが女だからそういうこと言ってきたんだろうなってのもある)。

 

別にどの国の文学を読んだって、どの国の文学を研究したってよくないか? とは思いつつ、たとえばある国の人と会ったときに、その人はその国の文学をよく知っているだろうという前提で話してしまうこともある(自分だって日本文学に精通しているわけでもないのに)。

 

ということを思い出したのは、New York Review of Booksで見かけて面白そうだなと思って買った小説Disorientationを読んだからかもしれない。作者Elaine Hsieh Chouの長編小説のデビュー作である。

 

主人公は台湾系アメリカンのイングリッド・ヤン。アメリカはマサチューセッツ州にある架空の大学バーンズ大学の東アジア研究科大学院博士課程に在籍して8年目で、博士論文執筆の期限が迫っている。彼女の博論テーマはXiao Wen Chouという中国系アメリカ人詩人だ。Chouは有名な詩人でもありながら、バーンズ大学に教授としても勤めていたが、しばらく前に惜しくも亡くなってしまった。大学には彼の原稿や資料が収蔵されたアーカイヴも作られており、Chou研究の中心地となっていた。イングリッドの指導教授はマイケル・バーソロミューという中国古代史の研究者だが、イングリッドに熱心にChouをテーマとして博論を書くことを勧めた張本人だ––Chouのような有名な中国系アメリカ人詩人(中国系アメリカ人版ロバート・フロストだという)の研究をしていると就職に有利になるということをほのめかせて。とはいえイングリッド本人は、論文執筆に苦しんでいた。

 

あるとき彼女がアーカイヴで調べ物をしていると、彼女が置き忘れていたメモ用紙に誰かがコメントを書いていた。Chouを知らなければ書けないようなコメントを見て、彼女は博論のヒントになるのではないかと思う。誰からのメッセージなのか? そのコメントを誰が書いたのかを調べていくうちに、彼女は死んだはずのChouを目撃してしまう。驚いた彼女は、さらにChouの大きな秘密を知ってしまう。その秘密とは––

 

読み始めたら面白くてやめられない。特に前半はテンポもよくてどんどん読み進めてしまった。大学院生の生活、指導教授とのやりとり、大学内の政治、学生間の仲間意識とライバル意識など、身につまされるところもたくさん(汗)

 

コミカルなトーンで語られているけれども、ここで描かれていることにはいろいろと考えさせられる。たとえば、最近もよく聞く文化盗用(cultural appropriation)の問題。ある文化は、その文化で育った人たちしか享受してはいけないのか。本書の中心はここにある。他の人種を装って書いたテクストは、仮にそのテクストが素晴らしいものであっても、価値はないのか。テクストはテクストだけでは成立しないのか、とか。

 

それと関連して、特定の国や地域の文学や文化を研究出来る(すべき)なのは誰か、ということ。アジア系の人は、アジア系の文学を研究しなければならないのか。あるいは、文学の翻訳は作者と同じ属性を持つ人しか訳してはいけないのか(昨年もアマンダ・ゴーマンの詩の翻訳をめぐって問題があったように)。

 

さらには、こうしたことを考えることは「政治的」なのかどうかということ。アメリカの中でアジア系アメリカ人として暮らすことや、ある種のステレオタイプを引き受けながら生きて行くことは日常にあふれている。一方でそれに対して声を挙げようとすると「政治的だ」と言われることのむずがゆさがある。イングリッドのライバルで、ポストコロニアル学科の大学院生ヴィヴィアンは声をあげる人物で、一方イングリッドはそれは自分はできないなと思っている。

 

イングリッドの恋人の白人男性スティーヴンは、性風俗での経験持つ日本女性カスヤ・アズミが出版した自伝的小説『ピンク・サロン』を英訳して評判となるが、彼は日本に行ったこともなく、日本語の会話はできない。日系アメリカ人が訳すべきところを、白人男性がその仕事を奪ってしまったといえるのか? イングリッドは問う。

 

ティーヴンがアジア系の女性とばかりつきあっていたことがわかったイングリッドは、人に特定の人種を好む指向があるとして、それはpreference (好み)の問題なのか、あるいはフェティッシュの問題なのか、ということで思い悩む。自分自身が愛されているということなのか、自分の属性が愛されているということなのか–––自分は代替可能な存在なのかどうか。そして自分はなぜ白人男性とばかりデートするのか? 

 

こうした問題は、読んでいるわたし自身にも返ってくる。冒頭で述べたように、誰がアメリカ文学を研究できるのか? 日本にいるわたしのような人がアメリカ文学を研究する意味とはなんなのか? あるいは日本に生まれ育った人は、日本文学を研究しなければならないのか?

 

そのひとつの答えは、先日読んだ『文藝』春号に掲載されていた斎藤真理子さんの「翻訳に悩む<倫理>という言葉––––韓国文芸批評が示すもの」に示されているんじゃないかと思っている。本論で斎藤さんは韓国文学の評論の中に「良い人」という表現や「倫理」にまつわることがなんのてらいもなく語られていることを指摘している。そしてその批評史を俯瞰的に見ることで、現代韓国文学のひとつの特徴を浮かび上がらせる。これは韓国文学を「外国文学」として、「外」の視点から見ているからこそ気がつくことじゃないか、と思ったんです。「中」にいると当然のことを、「外」から見るといった意味が、外国文学研究にはあるように思えるのです。

 

とかなんとかそんなことをいろいろ考えながら読みました。

 

いつも学期の終わりに大学院生のみなさんと読書会をしているのですが、今度の学期末にはこのDisorientationをみんなで読むことにしています。どんな意見がでるのかいまからちょっと楽しみです。