みかづきときどき日記

本や日常のことなどゆるゆる

【読み直す一冊】ローラ・インガルス・ワイルダー『長い冬』(鈴木哲子訳)

 

わたしは三人姉妹の次女なんですが、だから次女が活躍する物語が好きだったりします。『若草物語』とか『高慢と偏見』とか、大きな森の小さな家シリーズとか。次女の物語。

 

わたしが持っている『大きな森の小さな家』(福音館、恩地三保子訳、初版1972年)は第15刷りで、1976年の発行。ここから『農場の少年』『大草原の小さな家』『プラム・クリークの土手で』、そして『シルバー・レイクの岸辺で』までは福音館の恩地三保子訳で育ったわたし。

 

ウィスコンシン州ペピン湖…カンザス…インディアン・テリトリー…サウス・ダコタ…。読みながらインガルス一家と一緒に旅をしているような気持ちになっていました。

 

品行方正で優秀な姉メアリイ(鈴木訳はメリー)と、ルールや決まりより好奇心が勝ってしまっていい子ちゃんではいられないローラ、そしてちょっと年の離れた妹のキャリー。という姉妹構成が自分と似ていたので、より感情移入をしていたということもあります(そのあとインガルス一家にはグレイスという末娘が生まれて四人姉妹になるわけですが)。

 

福音館での翻訳はシリーズ前半の5冊。いずれも繰り返し繰り返し読みました。後半は岩波書店の「岩波少年文庫」に入っていることを知ったわたしは、当然その先のローラがどうなったかを読みたいと思ったわけ。

 

『長い冬』『大草原の小さな町』『この楽しき日々』『はじめの四年間』は、たぶん母親に頼んで書店に注文してもらったのだと思います(歩いて行ける範囲の書店は小さな本屋さんしかなかった)。

 

そして『長い冬』を開いたわたしは大きなショックを受けるのです。

 

ぜ、全然ちがう雰囲気の一家になっとる??

 

そう、シリーズ後半の翻訳は鈴木哲子さん。しかも岩波版の『長い冬』の初版は1955年。古いのです。

 

一番驚いたのは、恩地三保子訳で「とうさん」「かあさん」となっていたPa, Maが、鈴木哲子訳では「父ちゃん」「母ちゃん」になっていたことです。さらに恩地訳は敬体(ですます)でしたが、鈴木訳は常体(だ、である)でした。

 

え・・・なんか・・・雰囲気違う・・・誰・・・

 

とわたしは思いました。なんといっても恩地訳のインガルス一家はとても上品な感じなんですね。元教師だった母キャロライン(鈴木訳ではカロリン)や父チャールズの会話は、たとえばこんなふうに訳されています。

 

とうさんは、いつものように、青い目をパチッとさせてわらいました。いちばんいいことを、おたのしみにあとまでとっておいたのです。そして、かあさんにいいます。

「キャロライン、なんと、ダンスがあるんだよ、その日は」

 かあさんはにっこりしました。とてもうれしそうに、もっていたつくろいものを、ちょっとひざにおろします。「まあ、チャールズ!」かあさんはいうのでした。

 それから、またつくろいものをつづけましたが、かあさんのほおはわらっています。「あのうすモスリンの服を、着ていきますね」かあさんはいいました。

 そのうすモスリン色の服は、とてもきれいなのです。

 

 

一方、『長い冬』の方はというと、こんな感じです。

 

「父ちゃん、手つだってくださるといいがな」と、母ちゃんがいった。母ちゃんはコーヒーひきをメリーからとって、小さな引出しからひいた小麦をすっかりだした。母ちゃんは上についている小さなじょうごに粒のままの小麦をいれて、父ちゃんに機械をわたした。「昼ごはんのパンを焼くにはもう一度ひかなけりゃ。」

母ちゃんはストーヴの下のあたたかいところから、ふたをしたパンだねのいれものをとりだすと、サッとかきまわして、カップに二杯、どんぶりの中にいれ、塩と重曹を加え、メリーとキャリーがひいておいた粉を入れた。そして父ちゃんからコーヒーひきの機械を受け取って父ちゃんがひいた粉もたした。

「ちょうど、きっかり」と母ちゃんがいった。「父ちゃん、すみませんでした。」

「あんまり暗くならんうちにもう仕事をしちまったほうがいいな」と父ちゃんがいった。

「帰んなさるころには、あったかいご馳走をこしらえて待っているからね」と、母ちゃんはもう一度、父ちゃんに念をおした。

 

 

という。

 

「いいがな」とか「帰んなさる」とか、なんか・・・ちょっと・・・いきなり一家のイメージが違っててどうしよう、と子どもの頃のわたしは思ったのでした。

 

その当時わたしは英語の原文にあたれるほどの英語力はなく(『長い冬』を読み始めたのは中学生くらい)、鈴木訳に頼るしかない。なんだかなー、と思いながら読んでいたのですが、物語の面白さもあってか、次第に気にならなくなっていきました。そして何度も繰り返して読んでいるうちに、この訳がくせになってくるというか、時折思い出しては読みたくなる、そんな本になっていったのです。ちょっとこそばゆいけど好き、みたいな。

 

あとがきで、鈴木哲子さんはこう記しています。

 

ローラの一家も、こうした開拓者だったのです。(中略)この開拓者の中には、生えぬきのお百姓さんでない人がたくさんいました。ローラのお母さんもそのひとりです。ですから、「母ちゃん」のはなすことばは、都会の学校の先生のようなことばで、きっすいのお百姓さんことばではないのです。けれども、日本語では感じが違うように思ったので、わたしは適当に農村らしくしたつもりです。

 

いま思うと、鈴木訳によって出てくるインガルス一家のイメージは、けっこうリアルなものだったかもしれない、などと思ったりもするのです。とくに、7ヶ月の間冬が続き、大雪によって周囲から孤立してしまった町とそこに住む人々の極限状態を描く『長い冬』では、ちょっとべらんめえな感じの鈴木訳が、よく似合う。あんまり繰り返し読んだものだから、『長い冬』を原文で読んでいても、頭の中で鈴木訳に変換して理解している自分がいます。もちろん恩地訳によるシリーズ前半も大好きですが。ジャックがね、いいよね、ジャックが。

 

ところで、わたしがインガルス一家の物語の後半を読み出した中学生当時は、『この楽しき日々』がお気に入りでした。この作品はなんといってもローラとアルマンゾの恋愛関係が育まれていく内容ですから、少女マンガに脳をおかされていたわたしにはピッタリだったわけです(まー、もちろんこの作品はいまでも好きですけれども)。

 

でも、大人になってからは『長い冬』を手に取ることが多くなったかも知れません。もともとこの本は、第二次世界大戦後にいち早く日本に紹介された作品であることからわかるように、困難な状況にあっても、工夫をこらし、希望を見失わず、忍耐力をもって立ち向かえば、乗り越えることができる––––というのが主題だとは思うのですが、わたしが惹かれるのは、人の心がだんだん壊れかけていく、というところかもしれません。まるで人の金切り声のような吹雪の音を聞き続けていたり、外に出られなかったり、明日の食べ物がどうなるかわからないとき。しっかりしていたローラが、しだいに食欲をなくし、考えることが難しくなり、半分眠っているような状態になって「ね、母ちゃん、あたしどうしたんだかしらないけど、もう考えられないよう–––」と思わず口走ってしまうところ。

 

しっかりしなければ、という気持ちの隙間にすっとおとずれる怖さがあるように、思えるのです。

 

ちなみに、バーバラ・M・ウォーカーの『小さな家の料理の本』(本間千枝子・こだまともこ訳、文化出版局)には、大きな森の小さな家シリーズに出てくる食べ物のレシピが載っているんですが、この『長い冬』に出てくる豆のスープに関しては、こんなふうに説明しています。

 

もし、どんな味のものか試食してみたかったら、ベークトビーンズを作る途中で、豆の煮汁をちょっと飲んでごらんなさい。歯の根が合わないほど凍えていたり、おなかがとてつもなくすいていたら、さぞ、おいしいと思うでしょうけれど。

 

つまり豆のスープっていっても豆の煮汁だったのですよね。毎日毎日こんなスープやジャガイモ、ごつごつしたパンばかり食べていたというから、どれだけ大変だったか。石炭がなくなると干し草を棒のようによって火にくべ、灯油も尽きてくるから、一日二食にして、夜は早く寝てしまっていたという。

 

2015年の夏に、LauraPaloozaというローラ・インガルス・ワイルダーに関する学会(というかファンミーティングみたいな…)があったので、そこで研究発表をするために、サウスダコタ州のブルッキングスにあるサウスダコタ州立大学まで行きました。そのときエクスカーションでデスメットにあるインガルス一家の町の家と、インガルス家の農地や墓地などに行きました。

 

デスメットのメインストリートは当時とあまり変わっていないという説明でした(道が一本あるだけだから)。ここが雪に埋まったんだな…と思いながら通りを歩いていました。ほんっとになんにもないところで、ちょっと町からはずれると平原がひたすら広がっていました。どこまでもどこまでも広がっていました。すべてが雪に覆われたところを想像しながら、わたしはただそこに立っていました。